2011年9月20日火曜日

放射線被曝への不安を理解するということ

日進市の祭りで福島の花火打ち上げず 市民から苦情受け
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/09/19/kiji/K20110919001656030.html?feature=related

福島産花火打ち上げ中止 日進市に抗議500件超
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/09/20/kiji/K20110920001662670.html

個人的には、打ち上げ中止は不適切だろうと思うし、とても残念な出来事である。
しかし、打ち上げを不安に思う気持ちを理解することから、この悶々とした気持ちの突破口を見出したい!

この問題は、どちらが正しいとか、正しくないとかいうことではすまされない。
また、市民全員が放射線による影響について正しく理解すれば、すべて問題が解決するとも限らない。

放射線による有害作用について、確率的影響を論じている以上、同じ環境下で過ごしていても、その体験は、一人ひとり「解釈」「期待」「感情」「影響」が異なっていて当然である。

「患者中心の医療③」疾患と病気の両方の経験を探る
http://atsushii.blogspot.com/2010/09/blog-post_4439.html
で述べたように、ある健康問題を抱えた患者さんが医療機関を受診したとき、家庭医はまずその人の問題を「疾患」と「病気」とに区別し、それらの両面から患者さんの経験を探る。
「疾患」とは医学的に身体に起こっている変化のことで、風邪や肺癌などの「診断名」と言い換えてもよい。
現代まで続いている医学的アプローチの中心的部分は、まさにこの「疾患(診断名)」が何かを突き止めるために問診・診察・検査をおこない、その結果たどりついた診断名に応じた治療をおこなうというものだった。
しかし、実際の診療の現場では必ずしもこの診断名までたどりつかないこともあるし、たとえ診断がついたとしても同じ疾患の人すべてに同じことが起こっているわけではない。
そこで家庭医は、病んでいる人それぞれが個別に抱える苦しみ、つまりその人がどのように問題を「解釈」し、どのような「期待」をもって医療機関を訪れ、どんな「感情」で、どんな「影響」を恐れているのかという個々の「病気」の経験を探ることも、「疾患」を探ることと同様に重視する。

時に「疾患」の治療そのものよりも、「病気」の体験を探ることが問題解決のためにより重要になることもある。

放射線被曝に対する不安においても、全く同じことが言えると思う。
(この花火から愛知県に放出される放射線量は検出不能だと思うが…)
被曝量が限りなく通常レベルに近い集団の中でも、いわき市内でも、その状況に対する個々の「解釈」「期待」「感情」「影響」はまったく異なってしかるべきである。

違う考えを持っている相手を責める前に、考えが異なることを当然のこととして受容し、互いに理解しあうことから、国をあげての本当の復興が始まるのだと思う。

謝辞: こんな拙いブログでも、本日、ご来場者延べ10,000人を超えました。ありがとうございます。
    (記念品は用意していませんが…)

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