2012年10月30日火曜日

診療時間外の急患がたらい回しになる理由



今宵も病院は穏やかでは無いようで救急車が縦列している。
(私、今夜は当直では無いですが・・・)

残念ながら、今のいわき市は、診療時間外の急患に関しては、たとえ発症現場の目の前に立派な病院がそびえ立っていたとしても、すんなりそこに搬送してもらえるとは限らない。

「はいどうぞ!」

と言ってくれる医師が当直している病院に救急車が集中してしまうしくみになっている。

なぜか?

医療ニーズが多様化した現代では、「診てさしあげたい」という気持ちだけでは出来ない事情がある。
昔なら医療を受けられるだけで幸せだった。
今は助からなければ医師のせい。
そんな風潮があるかぎり、必然的に医師はちゃんとトレーニングした自信のある領域以外は診れない(診たくない)ということになる。

残念ながら、診てもらうことへの患者側の感謝の気持ちも、拝見させていただくことで成長できることへの医師側の感謝の気持ちのいずれも持ちにくい社会になっている。

医師にも問題がある。
診もしない段階で「専門外だから診れない」と決めつける傾向はあり過ぎる。
軽症の患者さんの多くは、実際に診ない限り、診れないかどうかすら判断できないし、実際に診てみると対応できない患者さんは実は少ない。
主な症状だけ聞く限り「専門外」だと思われた患者さんを実際に診てみたら、どんピシャリで「専門領域」の疾患だったりすることもある。

例えば、「泌尿器科当直だから診れない」と診療を断られた「腹痛」の患者さんが泌尿器科疾患の「尿管結石」であったり、消化器科の先生に「循環器科へ」と診療を断られた「胸痛」の患者さんが消化器科疾患の「逆流性食道炎」であったりする。
漫談ではなく実際にこんなことが起きている。

だから

「はいどうぞ!」

と言ってくれる医師が当直している病院に救急車が集中してしまうしくみになっている。

必然的に・・・

そして、

たまたま

「はいどうぞ!」

と言ってくれる医師が当直している病院が無い夜は、ほとんどの患者さんが、最後の砦である三次医療機関(救命センター)に搬送されてしまうのだ。
救命センターに軽症の患者さんも殺到すれば、当然 重症患者さんへの対応が立ち行かなくなる。

そんなことが、いわき市で日々繰り返されている。

家庭医の専門性と必要性を明確に示す家庭医療の原理

McWhinner 先生が示された家庭医療の原理から、家庭医の専門性を再確認してみよう。

<家庭医療の原理>
1 ある領域の知識、疾患、手技に献身するのではなく、患者に献身する
2 家族や社会など包含する病いのコンテクストを理解しようとする
3 毎回の受診を、予防や患者教育の機会として利用しようとする
4 診療を通じて、リスクの高い住民のことも考える
5 自らを人々の支援や診療にかかわる地域ネットワークの一部と位置づける
6 患者らと同じ地域に住む
7 患者を診療所だけでなく、在宅や病院でも診る
8 医療において主観的な側面や自らを振り返ることを重視する
9 さまざまな有限な資源のマネジメントについて自覚する
McWhinner IR:Teaching the Principles of Family Wedicine. Can Fam Physician, 27:801-804, 1981.
日本プライマリ・ケア連合学会 基本研修ハンドブック 日本プライマリ・ケア連合学会編 南山堂 2012

1を起点に考えれば、家庭医療の専門性を理解しやすい。
勿論、患者に献身的であることは医師としてあたりまえである。
医師である以上、医師は皆、そのことを前提として仕事をしていると信じたいし、実際、各科専門医も勿論患者に献身している。
しかし、各科専門医は、ある領域の知識、疾患、手技に特化して学び、技術を磨くことにより、結果として患者に献身するというプロセスを踏むのに対し、家庭医は、患者に献身するために、必要かつ有用であれば、あらゆる領域の知識、疾患、手技を学ぶし、それがむしろ非効率であったり有害であると判断すれば、その部分に関しては然るべき専門医に委ねる。
そういう意味で、たとえ生み出す結果や仕事の内容は見かけ上 同じであっても、アプローチの方向は真逆なのである。
患者に献身することが起点であることで、副次的に他のどの専門科よりも磨かれやすい技術もある。
それは臨床推論のスキル、つまり診断能力である。
未だ疾患領域が不確定の患者の訴えをもとに、あらゆる健康問題の原因を診断していくことは、家庭医に不可欠なスキルであるし、腕の見せ所でもある。
しかし、忘れてはいけないことは、それはあくまでも患者に献身するためであるということ。患者に献身するためにそれが必要かつ有用であるからこそ、家庭医は診断学を大事にするのであって、それ自体は家庭医療の専門性の本質でもなければ目的でもない。

とかく、難しい疾患の診断ができることが優れた家庭医であるように誤解され、時に、その能力がもてはやされることもある。
もちろん、優れた診断能力は、優れた家庭医の必要条件ではある。
しかし、それは医師である以上、患者に献身的なのがあたりまえであるのと同じように、優れた診断能力を志すのは、家庭医にとってあくまでも必要条件にすぎない。
診断能力。
それは家庭医に求められる重要な能力ではあるものの、家庭医に求められる能力のほんの一部であり、患者に献身するための手段の一つにすぎないことは認識しておかなければならない。

しかも、家庭医療の原理の2以下の項目は、患者に献身することにとどまらず、地域全体に存在する患者予備軍へのアプローチを、家庭医を含む地域住民みんなで行なうことで、疾病予防も実現し、更に常に改善を繰り返していくという、実に実に深~い内容となっている。

自分にこれらが実践できているとは思わないが、少なくともやれるように準備している。
やったことが無い手術を“ぶっつけ本番”でやりながら覚えることが許されないように、家庭医療もまた“ぶっつけ本番”でやっていい、もしくはやれる医療ではない、深く重い専門性をもった医療の領域である。
当然、実践するための周到な準備は不可欠だ。
にもかかわらず、我が国には家庭医療を修得することができる適切な研修の場が殆どない状態のまま長年放置してしまったという残念な歴史がある。
プライマリ・ケアの多くを担われている多くの個人開業の先生方は、ちゃんとした研修プログラムが無い中、“ぶっつけ本番”に近い形で地域医療を実践しながら、個々人のご努力で地域医療を支えてきた。
とはいえ、いざ急病となれば、その軽重にかかわらずかかりつけ医をスルーして病院に直行ということもまったく珍しくないし、病院の医師はその状況に疲弊し、止むを得ず“ぶっつけ本番”の開業という道を選択し、残った病院の医師がさらに疲弊していくという不幸なスパイラルに陥っている今の日本の地域医療崩壊の現状を鑑みると、これからもずっと今まで通りで良いかは、敢えて言うまでもないだろう。

「病院勤務医が不足しているのだから、もともと余っている開業医(家庭医)をこれ以上増やす必要は無い!」という意見を耳にすることがある。
しかし、地域医療のベースとも言えるプライマリ・ケアを充実させることなく、病院勤務医を増やしたとしても、付け焼刃な対症療法以外のなにものでもない。
そもそも、人は自分の使命を自覚した時、頑張れるのだと思う。
それは医師も同じ!
軽症にもかかわらず、かかりつけ医をスルーして病院に直行してくる患者さんを、毎日毎日診続けることに使命感を燃やすことができる病院の臓器専門医がいるとすれば、それはよほど悟りを開いた聖人といえよう。

もしも、家庭医療の原理に基づいた医療を提供する医師が自分のかかりつけだったとして、かかりつけ医に相談することなく他の医療機関を受診することが、果たしてあるだろうか?
そうやって、どの医師も持ち場を守り、それぞれの持ち場で使命感を持って働くことができることが、医療を提供する側、利用する側双方に生きがいと幸福をもたらすことになる。
家庭医療の原理に基づいたプライマリ・ケアを提供できる医師の養成が、この国には不可欠であると確信する。

2012年10月20日土曜日

「かかりつけ薬局」の役割

「かかりつけ医」という言葉なら聞いたことがあるが、「かかりつけ薬局」という言葉には馴染みが無いという方が多いかもしれない。

しかし、専門科開業の多い日本では、1人の医師が1人の患者さんのすべての健康問題に責任を持っていないことも多いため、悲しいことに「かかりつけ医」の役割と責任性が不明確である。恐ろしいことに、長期にわたりずっと診ている患者さんが、普段自分が処方している薬以外に、他の医療機関の他の科(時に同じ科)の医師から、飲み合わせが悪かったり、治療している疾患の病状を悪化させる可能性がある薬を処方されていたり、時に全く同じような薬が重複して出ていても、全く気付いていないということがある。

事実、そういった患者さんが体調が悪くなって入院した際、普段飲んでいるお薬の現物を全部見せてもらったところ、常用薬だけで20種類を超えていることもまれではなく唖然とする。
しかも、常用薬を最低限必要を思われる数種類に減らしただけで、病状が改善することもしばしば経験する。
このようなケースは恐らく氷山の一角で、潜在的な薬害はかなり多いのではないかと懸念している。

これは、家庭医療が発展していない日本特有の問題であり、心の底から悲しく、恐ろしい現実である。

このような現実が展開される限り、当面 日本では「かかりつけ薬局」の役割が非常に重要にならざるを得ない。

「かかりつけ薬局」を持つメリットとして、薬の重複,飲み合わせによる副作用を未然に防ぐことができるという点が挙げられる。
「かかりつけ薬局」を一か所に決めておけば,薬剤師が患者ごとに「薬歴管理」をしてくれるので、もしも患者さんが複数の医療機関にかかっていても,同じ成分を含んだ薬が重複して処方されていないか、飲み合わせによる副作用の心配はないかをチェックすることが可能となり、薬による事故を未然に防ぐことができる。
また、薬についての詳しい説明が受けられるし、処方された薬に関する「ちょっと心配なこと」や医師に聞きそびれた疑問も、顔見知りのかかりつけ薬局があれば気軽に質問しやすいだろう。さらに、調剤薬局では「処方薬」だけでなく,市販薬との飲み合わせや普段服用している健康食品、サプリメント類などとの飲み合わせについても相談にのってくれる。

日本には、これらのメリットを最大限に発揮するため「お薬手帳」という、素晴らしく有用なものがある。
震災急性期、かかりつけ医、かかりつけ薬局ともに機能不全に陥ったものの、お薬手帳のおかげで、普段の処方内容はもとより、その内容から原疾患をわりだすことができたケースが数多くあった。
複数の診療科や複数の医療機関を受診する場合も、薬局だけは是非一か所にまとめて欲しい。
やむを得ず、複数の薬局を利用する場合も、せめてお薬手帳を一冊にまとめて、普段受診している医師に、他の医師から処方されているお薬を見せることをお勧めしたい。

学園祭の中で学ぶ家庭医療レジデント・フォーラム②

バンドの重低音が学内に響きわたる中、FaMReFのトリは恒例の葛西龍樹教授による「Cinemeducation」

今日の題材は

「フィラデルフィア」(1993)

ホモセクシャル、HIV感染を理由に不当解雇された主人公(Tom Hanks)の雇用差別との闘いを描いたこの映画。
今の社会背景と異なり、HIVと公表することはセンセーショナルであっただろう。
しかし、差別はどの時代にもある。
今もある。
患者の隣にいるだけでエイズが感染すると誤解されていた時代があるように、
福島から来た人の隣にいるだけで放射能がうつると誤解されていた時もあった。

他人事だと、無関心・無知、そして理不尽な排除がおきる。
逆に、ちゃんとした知識があれば、自ずとちゃんとした対応が生まれる。

未来の福島の子供たちがそんな体験をしないよう、どんな偏見があっても、プロフェッショナルとしてどう対応していくか考え直していきたい。
分からないものにたいする漠然とした恐れを低減することができるように・・・


お楽しみの懇親会は福島市名物の餃子!!!
「こはる」
http://tabelog.com/fukushima/A0701/A070101/7002092/
ここの女将さんのノリの良さが大好きなのだが、ちなみにお名前は「こはる」さんではないそうだ!
ご家族のお名前でもなく、姓名判断をなさる先生に命名していただいたそうだ!
頭上では、〇z の〇本さんや〇島〇郎さんのサインが踊っていた。

学園祭の中で学ぶ家庭医療レジデント・フォーラム①

中庭で展開される「おでん」の香りと、隣の楽屋からきこえるギターのかなで。
いつになくムーディーな雰囲気の中、家庭医療レジデント・フォーラム(Family Medicine Resident Forum:FaMReF)が開催された。

アイスブレイクとして、参加者に学園祭の想い出を語ってもらったが、様々な武勇伝や甘酸っぱい想い出があり面白かった。


Reflection of the monthでは、後期研修4年目の早坂啓伸先生から、不妊をテーマにした振り返りがなされた。
1年間積極的な子作りをしても15%は妊娠が成立しないというWHOのデータと、治療が可能であった場合でも不妊治療の成功率は10%強であるという日本産婦人科学会統計から、不妊は意外にCommonな健康問題であることを知ることができた。
近隣で不妊治療を提供している医療機関も正直知らなかった。
日本産婦人科学会のホームページで確認できるそうである。


家庭医は、感染症予防という観点にとどまらない、広角な視野をもった性教育を提供していきたいものだ。
特に、家庭医でもすぐにできる、禁煙・節酒・節カフェインや適度なダイエットなどの生活指導や、基礎体温を目安に行なうタイミング指導は、ノーリスク・ノーコストなので試してみる価値はありそうだ。
そして何よりも、不妊に悩む夫婦の個々の体験を理解し向き合うことが私たちの大切な役割である。



次に、菅家智史助手から
「介護保険のトリセツ(取扱説明書)」
~家庭医ならば 知っておきたい基礎知識~

と、その前に、リニューアルした福島県立医科大学医学部地域・家庭医療学講座のホームページの宣伝がなされた。
http://www.fmu.ac.jp/home/comfam/
ここからどんどん楽しい情報を発信していきたい!

さて本題では、疾病の予防・診断・治療を行なう医療と、生活支援を行なう介護との違いと、その介護を社会で担うことを目的に制定された介護保険制度のABCを再確認できた。

申請から利用までの流れの中で、どんな環境で仕事をしていても、高齢者に関することなら何でも相談してよい「地域包括支援センター」は最強の味方である!

また、介護認定審査会に参加している側でないと分からない裏話。
認定のためにとっても役に立つ治医意見書を書けるようになるための、目が覚めるような非常に重要なポイントを知ることができた。

第5回 光翔祭 (福島医大学園祭)

今日・明日と、福島医大の3年に1回の大規模学園祭「光翔祭」が開催されています。
模擬店やステージイベント、講演会などの企画があります。
http://kosho2012.exblog.jp/


医学部の学園祭だけあって、医学に関する展示や健康相談コーナーなどが充実しています。
午前中、プライマリケア部門の企画のお手伝いを若干してきました。
 昼過ぎになると、少しずつ人が増えてきました。
 昼飯がてら、酒処「万年床」でこたつにあたりながら角煮丼をいただきました。
酒処ながら大人の事情でソフトドリンクしかおいてません。
店内では、エンドレスで新沼謙治の「嫁に来ないか」が流れていました。
2日間ずっとエンドレスで流れているとのこと。
すっかりこの曲が耳についてしまった・・・

2012年10月19日金曜日

還暦をむかえた英国家庭医学会 家庭医療セミナーinいわき 実践家庭医塾



夕焼けとお月様が美しい宵。
このままの呑みに行きたい衝動を抑えて勉強、勉強!


還暦をむかえた英国家庭医学会。
その記念集会に参加してきたボスからの報告。

英国家庭医学会は、充分な成長を遂げて、還暦をむかえてもなお、更なる向上と発展を続けようとする文化がある。

“あなた”とそのまわりの人々の専門医として、60年間もの間 歩み続けてきた、じいちゃん、ばあちゃん達の背中を追いながら、日本プライマリ・ケア連合学会も、ヨチヨチ歩きながらも確実に成長していきたいものだ。
そして、年を取っても ずっと向上心を忘れずに歩んでゆきたい。

ビデオレビューを繰り返すこと

ビデオレビューを繰り返すことにより、レジデントの成長と、あらためて初心に帰るべきポイントを再認識することができる。

そして素朴な疑問も・・・

この質問はどれだけ意味があるのか?

この身体所見はどれだけ意味があるのか?

患者さんは医師の説明をどれだけ理解しているのか?

考えたり調べたりすると、ますます謎が深まったりして、診療を振り返るのは様々な発見がある。

2012年10月18日木曜日

教育における役割の重要性

保原中央クリニックでの地域医療実習に来ている医学部5年生の学生さんに、地域の健康講座の講師をさせるというプログラムがある。

結構高いハードルな感じがするが、彼らは手分けしてワイワイ楽しそうに準備を進め、ちょいと緊張しながらも意外に活き活きと本番をこなす。

「君たちこんなキャラだったんだ~」 と、意外に芸達者な彼らのパフォーマンスに感心した。

うららかな午後、「きっとこの子たち、もともとこんな仕事がしたかったのね」 と勝手に想像しながら、彼らの活躍をあたたかく見守った。


学生や臨床研修医であっても、たとえ単なる見学者であっても、医療の現場にいる限り、立派なチーム医療の一員である。
彼らにしかできない役割を見つけ、思いきって任せてしまうこと。
人手の足りない臨床の現場で、効果的な教育を行なっていくための「役割」という重要なキーワードを再確認した。

なりたい医師への道を貫くこと

私は幸せな人間である。

やりたい仕事をして、言いたいことを言って、飲みたい物を呑んで生きている。

自分が本当にやりたいこと、それは・・・
身近な人たち、もっと言えば、日頃お世話になっている地域の皆さんに、医療と言う形で恩返しすること。
できることならば、あらゆる健康問題に対応したい。
専門外だから相談にのれないようなことはしたくない。
これが、自分にとっての、あたりまえでありふれた普通のお医者さん。
そんな医者になれたらいい。

そして、それを実践できるのが家庭医。

そう確信するからこそ、自分は今この道を歩んでいる。

医師を志すきっかけは多種多様であろうが、医師を目指した時の、なりたい医師のイメージは大雑把に分けると3通りなのではないだろうか?

① 神の手を持つスーパードクター(財前五郎 etc.)
② 身近な存在の町医者(梅ちゃん先生 etc.)
③ ①と②を兼ね備えた超人(Dr.コト― etc.)

孤島で心臓血管外科の手術をやってしまう③はさておき、自分がなりたい医者のイメージは、間違いなく②である。
そして、おそらく②をイメージして医師を志すことは案外多いように思う。
もちろん、①や③をイメージして医師を志したのであれば、トコトン追究して欲しいし、神の手やヒーロー・ヒロインを目指すべきだ!
むしろ私が残念に思うのは、②をイメージして医師を志したのに、いつのまにか①や③を目指すようになるケースがあまりにも多いこと。

これは、今の日本の医学教育制度に問題がある。
医学教育の現場に、②のような医師がほとんど存在しないのだ。
なぜなら、卒前医学教育の大半は大学内で行なわれるから。
憧れていた医師像は、大学のどこを探しても見当たらない。
大学病院に町医者のモデルがいないのは当然だが・・・

医学生たちは、①を目指す大学病院のお医者さんたちに囲まれながら、医学部の6年間をかけて、ゆっくりじっくりと②のイメージ、志していたはずの理想の医師像を徐々に忘れてゆくのだ!
そしていつしか②の医師のイメージは、①を引退した後に余生を過ごすためにやる仕事という位置づけに成り下がってゆく・・・
まるで、引退した野球選手たちが監督・コーチや解説者にまわるように、町医者は第一線を退いた後でも簡単に務まる程度の容易い仕事だと思って、それをしている医師がいるのも残念ながら事実である。

プロ野球OB戦も味があって面白いが、どうせお金を払って観るのであれば、やはり現役の真剣勝負が観たいのが当然!
それに自分の命がかかっていればなおのこと、本来のパフォーマンスができなくなったので仕方なく町医者をやっている医師と知っていて、命をあずけることができるチャレンジャーな患者さんはいないだろう。

「町医者は医師の余生ではなく人生そのものである」

こんな風に、胸を張って言えるほど、真剣勝負で質を担保していく姿勢を、利用者にも理解できる形で明確に示さない限り、患者さんの受療行動が病院志向になるのは当然なのである。

もう一度述べる。

私は幸せな人間である。

②を目指して医師を志し、そのまま②への道を歩み続けることができているから。
迷うことなく、なりたい自分を目指せる幸運に感謝しながら・・・

つまづいた時、私は自分に問いかける。

「もともと何がやりたかったのか?」

そして、もともとやりたかったことをやり続けている自分を再認識した時、また歩き出せる。
そこに、やりがいと役割を実感できるから。

今の自分のもうひとつの重大な責務は、大学に潜伏する前代未聞な町医者として、自分と同じように幸せな医療人を増やすこと。
①でも②でも、天才的な人なら③でもいいから、原点を忘れないこと。
原点を貫くことができることは最も幸せなことである。
幸せな医療人が増えることは、その何千倍もの幸せな患者さんを増やすことに等しい。
だからこそ、なりたい医師像、自分の理想を簡単に捨てないで欲しい。

なぁ~んてことを独り呑みながら考えている単身赴任な夜。

2012年10月11日木曜日

家庭医療の父 Ian McWhinney 先生のご逝去に寄せて

カナダにおける家庭医療の礎を築かれ、家庭医のバイブルとも言える「Textbook of Family Medicine」(2009年に第3版が出版)の著者である Ian McWhinney 先生が、先月(2012年9月28日)85歳で亡くなられた。

心からご冥福をお祈り申し上げる。


McWhinney 先生は、1968年に単身英国からカナダに移り、カナダでの家庭医療を一から創り上げた言わずと知れた大偉人であり、家庭医療の父と称される人物である。
そして、何度突っぱねられても諦めずに、本場カナダの家庭医療専門医コースにトライし、Ian McWhinney 先生のもとで直々にauthenticな家庭医療を学んでこられた当講座の葛西龍樹主任教授は、未だ妥協することなく、authenticな家庭医療を追究し続けている。
まだまだ未熟な我々も、authenticな家庭医療をもっともっと深く理解し、実践できるように精進し、脈々と受け継がれるこの家庭医療の芽を、日本で根付かせて、和風の花を咲かせてみたい。

Ian McWhinney 先生は、葛西先生に対していつも親身になってサポートしてくださったそうである。
そしてそれは、カナダで家庭医療を創り上げた者から、日本で家庭医療を創り上げようとしている者へのエールである旨のことをIan McWhinney 先生ご本人がおっしゃっていたそうである。

Textbook of Family Medicine」 難解な英文で綴られたこのIan McWhinney 先生の名著。
Ian McWhinney 先生が伝えんとしている真の家庭医療の心を、1人でも多くの日本人に正しく理解して欲しいとの想いから、慎重に丁寧に葛西教授が鋭意翻訳中である。
葛西教授が、訳本の完成をIan McWhinney 先生に直接報告できなかったことが残念でならない。

2012年10月1日月曜日

いわき市の救急医療事情② ~それでも診る理由~

これは、2008年の福島県の調査で、震災前の古いデータであるが、いわき市の救急医療状況の恥ずべき実態である。
他の地区に比べると、いわき市において、5回以上の受け入れ拒否が断トツに多い。
いわき市の救急医療に携わる者の実感として、救急隊からの日々の救急受入照会の内容を鑑みると、「かれこれ〇件目なのでなんとか受け入れてください」、「先ほども受け入れていただいたばかりで無理は承知ですが、受入先が見つからないのです」などと遠方の地区の救急隊から、懇願に近い要請が毎日のようにあり、この調査時の状況は現在もなんら変わっていないように感じる。
この状況は平日の日中ですら起きているのだが、夜間や休日となると、事態は更に深刻となる。
いわき市内の多くの2次輪番病院に常駐している日当直医は1名体制であり、救急要請に応需しうるか否かは、その医師の専門分野や技量およびモチベーションなどに左右される。

しかし本来、いわき市では2次輪番の当番に当たった2次救急病院は「救急隊からの受け入れ要請を原則拒否しない」ことになっている。
もしも本当にこの通り実行すれば、診療科の数に限りのある2次救急病院は、たとえ専門外の症状の患者であってもいったんは診療しなければならない。
専門外の患者の受け入れるとなると、訴訟問題がついてまわることになるだろう。

「救急隊からの受け入れ要請を原則拒否しない」などという絵に描いた餅を実際に食すには、軽症~中等症であれば専門外であっても受け入れて、標準的な診療を施すことができる病院総合医、救命医、ワイルドな家庭医など救急の現場でジェネラリストとしての働きができる医師が絶対的に不足しているのだ。

一方でこんな見方をすることもできる。
実際に当直していて辛いと感じるときはどんな時か?と思い返してみると・・・
それは、自分の診療行為が世のため人のためになっているとはとても思えない時である。
例えば、専門分野にかかわらず医師なら誰でも対応が可能と思われる明らかな軽症の患者が、数十km先から何十分もかけて搬送されてきた時。
貧乏性の私は、税金でまかなわれているこの救急車のガソリン代、救急隊の人件費、お金で買えない移動時間の価値を考え、「もしもこの方が最寄りの医療機関に受け入れてもらえていたなら・・・」想像する度にとても空しい気持ちになる。
そして、何よりもバックギアなモチベーションで患者さんに接してしまう自分がとても嫌になる。
まして、そのような患者さんの対応に追われたことが仇となり、近隣発生の救急要請に十分対応できなかったりすると、私のフラストレーションは最大になる。

だから、逆に事前情報からは専門外と思った患者さんでも、近くで発生した急患には極力対応するようにしている。
なぜなら、その方がもっとも効率が良いであろうことを経験上知っているから・・・
事前情報だけだと、最悪のシナリオを想起して断りたくなるものだが、その多くは、実際に拝見してみると、案外自分で解決できる場合が多いものだ。

「実際に診ない限り、自分には診れないのかどうかすら分からない」
だから診るのである。

そして何よりも、自分が守るべき地域を守っているという誇りを持って働くことができることが、自分にとって最高の喜びであり、心のよりどころなのである。

そして、自分がやるべきだと思う仕事を全力でまっとうした結果、たとえ訴訟問題がついてきたとしても、それはそれで仕方のないことだという覚悟ぐらいとっくにできている。

いわき市の救急医療事情① ~救急車3台が並ぶ病院~


昨夜は非常に厳しい当直であった。
急患は医療機関の事情とは無関係に発生する。
タイミングが悪いと、当院のように医師1人、看護師1人の弱小体制で当直をまわしている病院にも、救急車が同時に3台到着するという異常な光景が現実化する。
ちなみに昨夜の当院もまさにそのような状況であったが、決して2次輪番の当番日にあたっていたわけではない。
なぜ、こんな状況になってしまうのか?

本来、いわき市では2次輪番の当番に当たった2次救急病院は「救急隊からの受け入れ要請を原則拒否しない」ことになっている。
このことが実行されていれば、昨夜の当院のように2次輪番の当番日でもない病院に救急車が同時に3台などという事態は、まず起こり得ないはずなのだが・・・

そもそも、2次輪番制度とは、地域で複数の病院が共同し、当番制で休日・夜間の診療を行うというものである。
県医療計画によると県内10地区で導入されており、入院治療が必要な2次救急医療を担っている。
いわき市では確か現在17病院で輪番制を行っており、県内で最も数が多い。

2次輪番病院の役割とは何か?

地域の3次救急医療機関である救命救急センター(いわきでは磐城共立病院)が、命にかかわる重篤な患者を受け入れることに専念し、その機能を維持できるように、それ以外の患者を受け入れることである。
もしも2次輪番病院が機能せず、本来は2次輪番病院で診るべき患者が3次救急医療機関に数多く搬送されると、救命救急センターの受け入れ機能を低下させてしまう。

「それはけしからん!いわき市は2次輪番病院がたくさんあるのに一体何をやっているのだ!」
と責めるのは容易いけれど、どの病院も医師不足で十分な当直態勢がとれないのである。