2026年3月28日土曜日

正解を出す:機械、納得をつくる:人

診察室に入ってくるなり、その方はスマートフォンを差し出しました。

「先生、これ見てください。
 AIに聞いたら、“この症状はこの病気の可能性が高い”って」

画面には、よく整った文章が並んでいました。
過不足なく、論理的で、どこか安心感すらある文章。

きっと、それは“正しい”のでしょう。

「なるほど、よく調べていらっしゃいますね」

そう答えながら、私は少しだけ考えていました。
この情報で、この人は安心したのだろうか。

あるいは逆に、
不安が、より“はっきりした形”になってしまったのではないか。

AIは、正確な情報を提示します。
膨大な知識をもとに、矛盾の少ない答えを導き出します。

それは、医療にとって大きな力です。
診断の補助、情報の整理、標準治療の提示。

間違いなく、これからの医療に欠かせない存在です。

でも、診察室で向き合っているのは、
“情報”ではなく、“人”です。

同じ症状でも、
「とにかく原因を知りたい人」と、
「大きな病気でないと分かれば安心できる人」がいます。

同じ“正解”でも、
それが救いになる人と、
かえって縛りになる人がいます。

「この病気の可能性は、確かにゼロではありません」

そうお伝えしたあとで、私は続けました。

「でも、今のお話や診察の結果から考えると、
 すぐに心配しなければならない状態ではなさそうです」

少し間があって、その方は息を吐きました。
「……そうですか」

その一言には、
画面の中のどの文章にもなかった“重さ”がありました。

AIは、“正解”を出します。
でも、その正解が、
その人にとって“受け入れられる形”になっているとは限りません。

家庭医の役割は、
その間に立つことなのかもしれません。

情報を、意味に変える。
知識を、その人の人生の中に置き直す。

ときに私たちは、
診断をつけることよりも、
言葉を選ぶことに、ずっと長い時間を使います。

「大丈夫ですよ」と言うか、
「今は様子を見ましょう」と言うか、
それとも、あえて何も言わずに頷くだけにするか。

その違いが、
その人のこれからの数日、数週間、
もしかすると人生そのものを左右することがあります。

AIが進化すればするほど、
医療はもっと効率的で、標準的で、速くなるでしょう。

それでも、診察室には、
効率では測れないものが残り続けます。

迷い。ためらい。希望。
そして、言葉にならない感情。

医師になったばかりの頃、
私は「正しいことを言う」ことが大切だと思っていました。

でも今は、少し違います。

その人が、「それでいい」と思える形で、
未来を歩めること。

そのために、どんな言葉を手渡せるか。

正解を出すのは、機械でもできる時代になりました。

でも、
その正解で人が前を向けるようにするのは、
きっと、まだ人にしかできない。

正解を出すのはAI。
納得をつくるのは、家庭医。

2026年3月25日水曜日

命をつないだラジオ ─ FMいわきと、あの日の声

震災から15年。

プロジェクトX〜挑戦者たち〜で、いわきのコミュニティFM「FMいわき」が紹介された。

東日本大震災当時、あの“声”を聴いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

いわき市は地震と津波、そして原発事故によって、街全体が混乱の中にあった。
多くの人(住民の9割とも推計される)が自主避難し、情報が途絶える中で、唯一市内に残り、放送を続けていたのがFMいわきのスタッフたちだった。

停電、断水、通信障害――。
彼ら自身も被災者でありながら、安否情報、避難所の場所、給水所やガソリンスタンドの開設状況など、市民一人ひとりの生活に必要な情報を、24時間体制で発信し続けた。

番組の中で、あるスタッフが語っていた。
「自分たちも怖かった。でも、“声があるだけで安心する”って言われたんです。だから、止められなかった。」

その言葉に、涙があふれた。

私も当時、避難所を回っていた。
空間放射線量が高い中、不安と孤独が入り混じる車内で耳にしたのは、いつもの聴き慣れた声――
けれど、どこか少しだけ引き締まった「FMいわき」の声だった。

「この人たちも、ここで頑張っているんだ」

そう思った瞬間、涙が止まらなかった。
そして、自然とこう思えた。

「この人たちと一緒に頑張ればいい」

あれほど強かった孤独は、その瞬間、静かにほどけていった。

番組の最後に映し出された言葉――
「命をつないだラジオ」。

この小さな放送局の挑戦は、“情報”を超えて、“人に寄り添う力”とは何かを教えてくれる。

今でもFMいわきの放送が耳に入ると、あの日々の献身への深い敬意とともに、自然と耳を傾けてしまう。

あの声があったから、
私たちは、孤独ではなかったのだから。

2026年3月21日土曜日

「リブート」から夢想する家庭医療

TBSドラマ「リブート」を観ながら、得意の夢想が始まる。

この作品は、妻殺しの濡れ衣を着せられた主人公が、“顔を変えて別人として生きる=リブート”し、家族を守るために真実を追うという物語だが、 これは単なるサスペンスではなく、「家族」「再生」「嘘と真実」を軸にした物語である。

「人は、どこまでやり直せるのだろうか」

顔を変え、名前を変え、過去を捨てる――。
そんな極端な“再起動”は現実には起こらない。

けれど、私たちは日々、もっと静かで、もっと不器用なリブートに立ち会っている。

外来で出会うあの人も、病棟で寄り添ったあの家族も、皆それぞれに「前の人生」を背負っている。
診察室に入ってくるのは“今の姿”だが、本当はそこに至るまでに、何度も壊れ、何度も立ち上がろうとした軌跡がある。

うつで笑えなくなった人。
認知症で「らしさ」を失っていく人。
アルコールで家族を遠ざけてしまった人。

けれど私は知っている。
その人には、確かに「リブート前」があったことを。
誰かを大切にし、誰かに大切にされていた時間があったことを。

家庭医療とは、その“失われた物語”を探しにいく営みなのだと思う。

「大丈夫です」と言う本人。
「全然大丈夫じゃない」と言う家族。
「最近おかしい」とつぶやく周囲。

どれも嘘ではない。
どれも完全な真実でもない。

私たちは、そのバラバラの言葉を拾い集めて、ひとつの物語に編み直していく。
正解を当てるためではない。
その人が、もう一度“自分の人生を生き直す”ために。

ときに、患者は治療を拒む。
医学的には間違っている選択をする。
それでも、その選択の奥には必ず理由がある。

「家に帰りたい」
「迷惑をかけたくない」
「もう十分生きた」

それは論理ではなく、“その人の人生そのもの”だ。

だから私たちは、正しさだけでは動かない。
納得と、関係性と、時間の中でしか進めない医療を選び続ける。

リブートは、一度きりのものではない。
禁煙に失敗して、また挑戦する。
途切れた家族の会話が、少しだけ戻る。
歩けなかった人が、もう一度立ち上がる。

その一つひとつは小さく、誰にも気づかれない。
けれど確かに、それは“人生の再起動”だ。

そして、ときどき思う。
リブートされているのは、患者だけではないのではないかと。

迷いながら診療する日。
何もできなかったと感じる夜。
それでも翌朝、また現場に行く。

私たちもまた、誰かとの出会いの中で、少しずつ変わり続けている。

医師とは、完成された存在ではない。
誰かの人生に触れるたびに、自分自身も静かに更新されていく存在だ。

人は、何度でもやり直せるのだろうか。

答えは、きっと診療の現場の中にある。

劇的ではなくていい。
完璧でなくていい。

ただ、その人がもう一度、自分の人生に戻ろうとする瞬間に、そっと隣にいられること。

それこそが、家庭医療なのだと思う。

2026年3月20日金曜日

「つながり」に思いを馳せる日

 

今日は彼岸の中日。

春分の日と秋分の日を中心とする彼岸の時期は、
この世(此岸)とあの世(彼岸)が最も近づく時期とされています。

ご先祖様や大切な人に想いを馳せるこの日に、
私たちは日々の診療の中で出会った「いのち」と、そのつながりを思い返します。

お看取りの場面では、
その人が歩んできた時間と、
ご家族との関係が、静かに浮かび上がってきます。

別れの瞬間であっても、
そこには確かに続いていく“つながり”があります。

医療は、命を延ばすことだけではなく、
その人らしい最期と、その後も続くご家族の時間を支える営みでもあります。

彼岸の中日――
見えないけれど確かにある「つながり」に、思いを寄せながら。

私たちはこれからも、
一人ひとりの人生と、その先に続く物語に向き合う医療を大切にしていきます。

「別れは終わりではなく、かたちを変えたつながりの始まりかもしれません」

2026年3月14日土曜日

赤飯を捨てなくていい仕組み創り

 2026年3月11日 いわき市の学校給食として準備された赤飯約2100食が破棄されたとの報道を拝見しました。

震災から15年という特別な日に対する様々な思いがあり、関係者の皆さんがそれぞれの立場で真剣に考え、判断された結果であったのだろうと受け止めています。

一方で、医療や福祉の現場に身を置く者として、「食べること」は命や健康を支える根源的な営みであり、同時に食べ物を大切にする姿勢そのものが、次の世代に伝えるべき重要な価値だと日々感じています。その意味では、もし別の形で活かす方法があったならばとも思わずにはいられません。

東日本大震災の際には、多くの方が食料の不足や配給の不安を経験しました。

だからこそ、命を支える「食」を無駄にしないという姿勢もまた、震災から私たちが学んだ大切な教訓の一つではないかと感じます。

同時に、今回の出来事は、教育行政と市民、そして行政全体との間で、日頃から十分な対話と情報共有があったならば、また違った選択肢も見えたのではないかと考えさせられました。教育の政治的中立性は守られるべき大切な原則ですが、税金で支えられている公共サービスである以上、市民の目線や社会的な価値観と丁寧につながっていくこともまた重要だと思います。

医療の世界でも、出来事そのものを責めるよりも、そこから何を学び、次にどう生かすかを大切にします。今回の件が、学校、教育委員会、行政、そして市民の間の対話を深め、より良い形での行政運営につながっていくことを、一市民として心から期待しています。

2026年3月11日水曜日

東日本大震災から15年を迎えて

東日本大震災から、15年の歳月が経ちました。

あの日、いわきの街も大きな揺れと混乱に見舞われ、多くの方が不安の中で長い時間を過ごされました。
大切な人や日常を失われた方、今もなお様々な思いを抱えておられる方が地域にはおられます。
改めて、震災で亡くなられた方々に哀悼の意を表するとともに、ご遺族や被災されたすべての皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

医療の現場もまた、当時は決して平常ではありませんでした。
それでも地域の医療機関、行政、介護・福祉関係者、そして地域の皆さまが互いに支え合いながら、少しずつ日常を取り戻してきました。

私たちかしま病院も、その一員として、地域の中でできることを一つずつ積み重ねてきました。

震災からの15年は、決して短い時間ではありません。
一方で、地域の暮らしや健康を守るという営みは、これからも続いていきます。

私たちはこれからも、
地域の皆さまが困ったときに頼っていただける「面倒見の良い病院」であり続けたいと考えています。
病気だけでなく、その人の暮らしや背景にも目を向けながら、地域をまるごと支える医療を実践してまいります。

震災を経験した地域だからこそ、
支え合う力と、人を思いやる気持ちの大切さを私たちは知っています。

これからも地域の皆さまとともに歩みながら、
安心して暮らせる地域づくりに、医療の立場から貢献してまいります。

そして何より、
この地域で暮らす一人ひとりの**「いつもの日常」が、これからも続いていくこと**。
その当たり前を支え続けることが、私たち医療に携わる者の役割だと考えています。

震災の記憶を胸に、

これからも地域とともに歩んでまいります。

あの日を忘れないこと、そして日常を守り続けること。
それが、震災を経験した地域の医療機関としての、私たちの責任だと思っています。

碁石が飛んだ日から ―東日本大震災から15年、家庭医として―

あの日から、15年が経った。


2011年3月11日

三春病院の医局で被災した。

テレビの上に置いてあった碁石が宙を舞い、

本棚が倒れかかってきた。

ただ事ではない、と思った。

テレビをつけると、

黒い津波が町をのみ込んでいた。

画面の向こうは、

私の家族がいるいわきだった。

電話はつながらない。

メールも届かない。

ただ、

津波の映像だけが流れ続けていた。

あの時間の長さを、

私は一生忘れないと思う。

どうにかして家に帰ると、家族は無事だった。

しかし次女は右上腕骨を骨折していた。

地震の2時間前、竹馬から落ちたのだという。

当時の私はブログにこう書いた。

「予知能力でもあるのか?」

あれから15年。

娘はもう大人になった。

あの骨折のことを、

今では笑いながら話し、

怪我や病気の人を看る立場になろうとしている。

それだけでも、

奇跡のようなことだと思う。

震災直後のいわきは、

地震、津波、原発事故、そして風評被害の中にあった。

ガソリンがない。

食糧がない。

医薬品が届かない。

それでも患者さんは来る。

低体温の人。

避難所で倒れた人。

不安で眠れない人。

そして、

原発20km圏内から避難してきた患者さん。

懸命に皮下注射を続けたが、

それでも救えなかった命があった。

医師として、

あの光景は今でも胸に残っている。

 

316日。

私は、

幼い子供たちを家族に託した。

原発事故の先行きは見えず、

子供たちは県外へ避難することになった。

私は、いわきに残った。

あの時のブログには、

「宇宙戦艦ヤマトのような気分で家族とハグした」と書いてある。

本当は、

そんな格好いいものではない。

ただ、

医者としてこの町を離れるわけにはいかなかった。

 

317日。

病棟に、

一枚の言葉が掲げられていた。

相田みつをの詩だった。

うばい合えば足らぬ

分け合えばあまる

食糧が尽きかけた病院で、

職員は泊まり込みで患者さんを支えた。

医師も、食事介助をした。

あの時、

私は心から思った。

この人たちと働けてよかった。

 

328日。

止めていた外来を再開した。

混雑する待合室で、

患者さんが笑いながら言った。

「先生、生きてたの〜?」

その一言に、

どれほど救われたことか。

あれから15年。

いわきの町は、

見た目には元に戻った。

しかし家庭医として地域を歩いていると、

震災はまだ終わっていないと感じる。

あの避難所で出会った患者さんが、

今も外来に来る。

家族を失った人。

生活を失った人。

健康を崩した人。

災害は、

終わらない。

 

2011年のブログの最後に、

私はこう書いている。

 

「この危機を、日本に家庭医療を定着させる好機にしたい」

 

正直に言えば、

その夢はまだ道半ばだ。

でも、

ひとつだけ胸を張れることがある。

私はあの日から今日まで、

同じ町で、同じ患者さんを診続けている。

家庭医とは、

災害の瞬間だけを診る医者ではない。

その後の人生を、ずっと診続ける医者だ。

震災は多くのものを奪った。

でも同時に、

人が人を支える力の強さも見せてくれた。

だから私は、

今日もここに居続けている。

 

あの日、

三春病院の医局で

テレビの上の碁石が飛んだ。

あれから15年。

碁石はもう飛ばない。

 

でも私は、

あの日からずっと、ここで飛び回り続けている。