あの日から、15年が経った。
2011年3月11日
三春病院の医局で被災した。
テレビの上に置いてあった碁石が宙を舞い、
本棚が倒れかかってきた。
ただ事ではない、と思った。
テレビをつけると、
黒い津波が町をのみ込んでいた。
画面の向こうは、
私の家族がいるいわきだった。
電話はつながらない。
メールも届かない。
ただ、
津波の映像だけが流れ続けていた。
あの時間の長さを、
私は一生忘れないと思う。
どうにかして家に帰ると、家族は無事だった。
しかし次女は右上腕骨を骨折していた。
地震の2時間前、竹馬から落ちたのだという。
当時の私はブログにこう書いた。
「予知能力でもあるのか?」
あれから15年。
娘はもう大人になった。
あの骨折のことを、
今では笑いながら話し、
怪我や病気の人を看る立場になろうとしている。
それだけでも、
奇跡のようなことだと思う。
震災直後のいわきは、
地震、津波、原発事故、そして風評被害の中にあった。
ガソリンがない。
食糧がない。
医薬品が届かない。
それでも患者さんは来る。
低体温の人。
避難所で倒れた人。
不安で眠れない人。
そして、
原発20km圏内から避難してきた患者さん。
懸命に皮下注射を続けたが、
それでも救えなかった命があった。
医師として、
あの光景は今でも胸に残っている。
3月16日。
私は、
幼い子供たちを家族に託した。
原発事故の先行きは見えず、
子供たちは県外へ避難することになった。
私は、いわきに残った。
あの時のブログには、
「宇宙戦艦ヤマトのような気分で家族とハグした」と書いてある。
本当は、
そんな格好いいものではない。
ただ、
医者としてこの町を離れるわけにはいかなかった。
3月17日。
病棟に、
一枚の言葉が掲げられていた。
相田みつをの詩だった。
うばい合えば足らぬ
分け合えばあまる
食糧が尽きかけた病院で、
職員は泊まり込みで患者さんを支えた。
医師も、食事介助をした。
あの時、
私は心から思った。
この人たちと働けてよかった。
3月28日。
止めていた外来を再開した。
混雑する待合室で、
患者さんが笑いながら言った。
「先生、生きてたの〜?」
その一言に、
どれほど救われたことか。
あれから15年。
いわきの町は、
見た目には元に戻った。
しかし家庭医として地域を歩いていると、
震災はまだ終わっていないと感じる。
あの避難所で出会った患者さんが、
今も外来に来る。
家族を失った人。
生活を失った人。
健康を崩した人。
災害は、
終わらない。
2011年のブログの最後に、
私はこう書いている。
「この危機を、日本に家庭医療を定着させる好機にしたい」
正直に言えば、
その夢はまだ道半ばだ。
でも、
ひとつだけ胸を張れることがある。
私はあの日から今日まで、
同じ町で、同じ患者さんを診続けている。
家庭医とは、
災害の瞬間だけを診る医者ではない。
その後の人生を、ずっと診続ける医者だ。
震災は多くのものを奪った。
でも同時に、
人が人を支える力の強さも見せてくれた。
だから私は、
今日もここに居続けている。
あの日、
三春病院の医局で
テレビの上の碁石が飛んだ。
あれから15年。
碁石はもう飛ばない。
でも私は、
あの日からずっと、ここで飛び回り続けている。






