しかし、がん以外の原因で亡くなる方は、がんで亡くなる方よりもはるかに多い。
がんよりも予後の悪い、臨床的に悪性な病態を挙げればきりがない。
そういった方々に、いかに穏やかな終末期を過ごしていただき、静かにお看取りさせていただくことができるかが、これからの超高齢社会において不可避な多病・多死に対して、我々医療者に与えられた重大な課題である。
がんの終末期といえば、その後の大まかな転機はある程度予測がつく。
スピードの差こそあれ、少なくとも着実に進行し、やがて死を迎えることがほとんどだからだ。
状態によっては、積極的治療が延命につながらないであろうという判断もしやすい場合も多い。
一方、非がん患者さんはどうだろう?
もちろん、原因が多岐にわたるので一概にはいえないが、明らかにもう限界、いわゆる危篤と判断した患者さんが、翌日には普通に目を覚まして、普通にご飯を食べ始めたりすることもあり、終末期そのものの定義自体、あまりにも曖昧で、そこに求められる判断内容は非常に複雑で不確実性に満ち溢れた世界である。
今日の実践家庭医塾では、臨床研修医のT先生が、そんなモヤモヤした疑問に対する数少ない先行研究などを紹介しながら、非がん患者における終末期医療について問題提起し、その難しさについて示してくれた。
がんであれ非がんであれ、疼痛以外に出現する症状は多彩だ。
特に、呼吸困難・摂食困難は、いかなる終末期にも多くみられ、共通の課題となる。
苦しい原因は何か?食べらなくなったらどうするか?
置かれた環境、患者の想い、家族の状況…
マニュアルにこだわらず、個別に議論して、最善と思われる道を丁寧に探っていくこと。
そういった地道な努力こそが、より良い終末期医療の提供につながっていくだろう。
そして、最期の時をどこで過ごすべきか?という問いへの答えも、個々の状況で自ずと決まってくるだろう。もちろん、在宅だからよくて病院だから駄目だとは限らない。
難しい課題にぶつかった時、我々にとって患者中心の医療の方法がいかに優れた武器であるか再認識させられる。
ただし、これはあくまでも手段なので、結局は、ご本人が、家族や支える人々とともに、より良い終末期を過ごしていただけるよう、医学のプロとして知恵を絞りながら、ずっと寄り添っていく姿勢が大切なんだと思う。
以前にも記載したとおり、終末期というものは、漠然とした暗いイメージとは裏腹に、実はそれは人生の締めくくりであり、クライマックスであるわけで、ある意味 華やかに花道を飾りたい時期でもある。
個別のこだわりや希望・我がままを出来る限り叶えられるようサポートしていきたいと強く思う。
以前にも記載したとおり、終末期というものは、漠然とした暗いイメージとは裏腹に、実はそれは人生の締めくくりであり、クライマックスであるわけで、ある意味 華やかに花道を飾りたい時期でもある。
個別のこだわりや希望・我がままを出来る限り叶えられるようサポートしていきたいと強く思う。
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