2026年3月11日水曜日

東日本大震災から15年を迎えて

東日本大震災から、15年の歳月が経ちました。

あの日、いわきの街も大きな揺れと混乱に見舞われ、多くの方が不安の中で長い時間を過ごされました。
大切な人や日常を失われた方、今もなお様々な思いを抱えておられる方が地域にはおられます。
改めて、震災で亡くなられた方々に哀悼の意を表するとともに、ご遺族や被災されたすべての皆さまに心よりお見舞い申し上げます。

医療の現場もまた、当時は決して平常ではありませんでした。
それでも地域の医療機関、行政、介護・福祉関係者、そして地域の皆さまが互いに支え合いながら、少しずつ日常を取り戻してきました。

私たちかしま病院も、その一員として、地域の中でできることを一つずつ積み重ねてきました。

震災からの15年は、決して短い時間ではありません。
一方で、地域の暮らしや健康を守るという営みは、これからも続いていきます。

私たちはこれからも、
地域の皆さまが困ったときに頼っていただける「面倒見の良い病院」であり続けたいと考えています。
病気だけでなく、その人の暮らしや背景にも目を向けながら、地域をまるごと支える医療を実践してまいります。

震災を経験した地域だからこそ、
支え合う力と、人を思いやる気持ちの大切さを私たちは知っています。

これからも地域の皆さまとともに歩みながら、
安心して暮らせる地域づくりに、医療の立場から貢献してまいります。

そして何より、
この地域で暮らす一人ひとりの**「いつもの日常」が、これからも続いていくこと**。
その当たり前を支え続けることが、私たち医療に携わる者の役割だと考えています。

震災の記憶を胸に、

これからも地域とともに歩んでまいります。

あの日を忘れないこと、そして日常を守り続けること。
それが、震災を経験した地域の医療機関としての、私たちの責任だと思っています。

碁石が飛んだ日から ―東日本大震災から15年、家庭医として―

あの日から、15年が経った。


2011年3月11日

三春病院の医局で被災した。

テレビの上に置いてあった碁石が宙を舞い、

本棚が倒れかかってきた。

ただ事ではない、と思った。

テレビをつけると、

黒い津波が町をのみ込んでいた。

画面の向こうは、

私の家族がいるいわきだった。

電話はつながらない。

メールも届かない。

ただ、

津波の映像だけが流れ続けていた。

あの時間の長さを、

私は一生忘れないと思う。

どうにかして家に帰ると、家族は無事だった。

しかし次女は右上腕骨を骨折していた。

地震の2時間前、竹馬から落ちたのだという。

当時の私はブログにこう書いた。

「予知能力でもあるのか?」

あれから15年。

娘はもう大人になった。

あの骨折のことを、

今では笑いながら話し、

怪我や病気の人を看る立場になろうとしている。

それだけでも、

奇跡のようなことだと思う。

震災直後のいわきは、

地震、津波、原発事故、そして風評被害の中にあった。

ガソリンがない。

食糧がない。

医薬品が届かない。

それでも患者さんは来る。

低体温の人。

避難所で倒れた人。

不安で眠れない人。

そして、

原発20km圏内から避難してきた患者さん。

懸命に皮下注射を続けたが、

それでも救えなかった命があった。

医師として、

あの光景は今でも胸に残っている。

 

316日。

私は、

幼い子供たちを家族に託した。

原発事故の先行きは見えず、

子供たちは県外へ避難することになった。

私は、いわきに残った。

あの時のブログには、

「宇宙戦艦ヤマトのような気分で家族とハグした」と書いてある。

本当は、

そんな格好いいものではない。

ただ、

医者としてこの町を離れるわけにはいかなかった。

 

317日。

病棟に、

一枚の言葉が掲げられていた。

相田みつをの詩だった。

うばい合えば足らぬ

分け合えばあまる

食糧が尽きかけた病院で、

職員は泊まり込みで患者さんを支えた。

医師も、食事介助をした。

あの時、

私は心から思った。

この人たちと働けてよかった。

 

328日。

止めていた外来を再開した。

混雑する待合室で、

患者さんが笑いながら言った。

「先生、生きてたの〜?」

その一言に、

どれほど救われたことか。

あれから15年。

いわきの町は、

見た目には元に戻った。

しかし家庭医として地域を歩いていると、

震災はまだ終わっていないと感じる。

あの避難所で出会った患者さんが、

今も外来に来る。

家族を失った人。

生活を失った人。

健康を崩した人。

災害は、

終わらない。

 

2011年のブログの最後に、

私はこう書いている。

 

「この危機を、日本に家庭医療を定着させる好機にしたい」

 

正直に言えば、

その夢はまだ道半ばだ。

でも、

ひとつだけ胸を張れることがある。

私はあの日から今日まで、

同じ町で、同じ患者さんを診続けている。

家庭医とは、

災害の瞬間だけを診る医者ではない。

その後の人生を、ずっと診続ける医者だ。

震災は多くのものを奪った。

でも同時に、

人が人を支える力の強さも見せてくれた。

だから私は、

今日もここに居続けている。

 

あの日、

三春病院の医局で

テレビの上の碁石が飛んだ。

あれから15年。

碁石はもう飛ばない。

 

でも私は、

あの日からずっと、ここで飛び回り続けている。