一人の医師として、いや、家族を持つ一人の人間としても、ためらうばかりで未だ何の結論も出せていない、役立たずの自分の無力さを嘆いたりしていた。
この本を手にするまでは・・・
サマー・フォーラムにお招きした、岩田健太郎先生の新著書
──帯文・内田樹 氏──
この本は、ためらい続ける自分が、案外“まとも”かも知れないことを教えてくれる。
上の図のように、そもそも放射線のリスク(確率的影響)はゼロになり得ない性質をもっている。(ということになっている)
実は、日頃意識していなくても、
乗り物に乗ること、
乗り物が突っ込んでくるかもしれない街を歩くこと、
食べること、
息を吸うこと、
生き続けることで老いていくこと、
生きていくためにしているあらゆる行為は、それ自体、死んでしまうかもしれないというリスクを常に抱えている。
中には、個人の努力で相当のリスクを回避できるものから、個人の努力にかかわらず、こうむってしまうリスクまで様々だ。
航空機が墜落するリスクを許容できないのであれば、その利便性の恩恵を受けない代わりに、航空機に搭乗しなければ良いのだが、この世に航空機が存在する限り、頭上から航空機が落ちてくるリスクは回避できない。
同様に、原発事故のリスクを許容できないので、原発で発電した電力の使用を拒否したところで、この世に原発が存在する限り(実は原発がなくとも)、放射能汚染のリスクを回避することはできない。
たとえば、「航空機のような危険なものは存在してはいけない」という主張は、あまり聞かれないのに、「原発のような危険なものは存在してはいけない」という主張は活発に行われている。
この一見本質的には違わないと思われる2者間の違いとは何なのか?
それは危険の程度の違いなのではないか?
言い換えると、実際に自分に被害が及ぶ確率を、個々が直感的に見積もった結果、多くの人が後者の方が明らかに確率が高いと判断しているということだろう。
つまり、「多分大丈夫だろう」と思えることは、無意識のうちに許容している。
実際に原発事故が起こる前は、「原発のような危険なものは存在してはいけない」と考える人は、今よりずっと少なかっただろう。
しかし今や、多くの人にとって原発は、「多分大丈夫だろう」と思えるものではなくなっているということである。
事実私も、原発事故以降、「原発のような危険なものは存在してはいけない」と思うようになった1人である。
しかし、そもそも誰もが、この世に生まれてきた以上、この世からお別れする日が必ずおとずれる。
複雑に絡み合った数え切れないほどのリスクを積み重ねながら、みな死に向かって生きている。
自分の選んだ道は正しいのか?
悩み、ためらいながら…
もしもすべてのリスクを回避したいのであれば、何もしてはいけない。(生きることも死ぬことも…むしろ生まれてはいけない) というヘンテコなことになる。
にもかかわらず、一律に(被曝量は)「〇〇までなら大丈夫!」や「△△を超えると危険!」などといった議論をしているのだから、いくら専門家が集まって朝まで討論したところで、結論がでるはずもない。
放射線のリスクを高く見積もる専門家も、低く見積もる専門家も、安全と危険のボーダーラインをどこかに引こうとしているという点では、本質的に同じ作業をしているように見える。
しかし、そのボーダーラインは、個々が個別に抱える多くの事情を考慮し、ためらいながら引くべきものであって、誰かが他者に強制的に押し付けることが出来るほど絶対的に正しい答えなど存在し得ないと思う。
事実、我が家でも、“ためらいながら”いわきに住み続けるリスクを許容している。
つまり、「多分大丈夫だろう」という判断をしているわけである。
私たちは、それぞれがさまざまな条件下で日々を営んでいる。
みな価値観や人生観が異なるのにもかかわらず、その個別性を配慮せず、他の誰かが一律に出した結論に真理などあるはずがない。
「患者中心の医療③」疾患と病気の両方の経験を探るで述べたように、放射線による有害作用について、確率的影響を論じている以上、たとえ同じ環境下で過ごしていても、その体験は、一人ひとり「解釈」「期待」「感情」「影響」が異なっていて当然である。
まして、放射線の有害作用という 信頼性の高いデータが乏しい領域の命題であればなおのこと、
根拠が曖昧なまま発表せざるを得ない大雑把な暫定基準値(単なる目安)を、「守っていれば大丈夫」と過信することも、「こんな基準じゃ安心できない」と非難することも、大雑把な暫定基準値を決めるだけ決めて放射線被曝への不安を理解することもせずに「基準値をクリアしていれば安全です」と安心を強要することも、建設的な行動とは思えない。
大切なのは、誰もが、「ここまでなら多分大丈夫だろう」と個別に判断できて、その目標をクリアするための行動ができて、結果として安心に過ごせる環境を整えることだと思う。
例えば、「基準値をクリアしていて安全なのに売れないのは風評被害である」と嘆いたところで、基準値そのものへの信用が揺らいでいる現状のままでは、「基準値クリア=安全」として扱うことには相当の無理が生じる。
こういった徹底した情報開示への取り組みは、個々が安心して消費するための判断材料を提供するという意味で非常に重要なことであり、今後の活動の更なる充実を応援したい。
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